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鎌倉時代を考えようⅡLINK集

すてきな夜空

鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されている。しかし、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。 鎌倉幕府は当初、将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。しかし源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家(摂家将軍)、後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除し、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。

文明のちから

執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。また、貨幣経済が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、凡下と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。1284年に弘安の徳政、さらに1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。

お屋敷

平安時代までの難解で、大衆への布教が禁じられていた仏教を変革する運動として鎌倉新仏教の宗派が興隆し、南都仏教(旧仏教)の革新運動がすすんだ。大きな特徴は、平安時代までの鎮護国家から離れた大衆の救済への志向であり、国家から自立した活動が行われた。 これは保元の乱、平治の乱から治承寿永の乱と続く、戦乱の時代により厭世観(末法思想)が強まり、魂の救済が求められるようになったためである。また、仏教の一般大衆化も推進された。(wikipedia参照)